Kyotansho 1

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凡例

  1. 底本には、江戸時代書写の初雁文庫本(『初雁文庫本 古今和歌集 教端抄』(OCLC 28909622)に収める)を用いた。
  2. 底本の翻刻に際しては、できるだけ原文のままとしたが、読解やネット上の便宜を考慮して、次のような操作を行った。
    1. 底本の変体仮名はすべて通行のひらがなに統一した。又、ひらがなに片仮名が混じっているのをひらがなに統一した。しかし、片仮名の振り仮名はそのまま片仮名で翻刻した。
    2. 底本の旧漢字・異体字・略字などは原則的に通行の字体に変更した。
    3. 仮名遣いは、いわゆる歴史的仮名遣いに統一せず、底本のままにした。
    4. 濁点、読点、漢文の返り点、漢字のルビ、送り仮名などは底本のままにした。なお、黒白の影印本には中黒の読点を判読しにくい場合もあり、おそらく間違いに入れた所もあるであろう。
    5. 仮名・漢字の繰り返し記号も底本のままにした。
    6. 行替えと段落は翻刻者の私見による。また、句読点は加えなかったが、読みやすさの為に空白を入れた所がある。
    7. 引用の部分は「」という括弧を用いて、それも翻刻者が加えた。(引用の合点の代わりに使った場合もある。)
  3. 頭注は(頭注:)のように指摘した。
  4. 底本に、注釈書などの題名や人の名前などを(おそらく朱で)二重線で示したが、それを全て省いた。
  5. 歌の番号は新編国歌大観による。
  6. 歌の引用の場合は、その歌の新編国歌大観番号を付した。

引用の説明

古今和歌集巻第一 「こきんわかしふまきのだいいつ」とよむ

題号ダイガウは此シフジョに・「いにしへのことをもわすれじ・ふりにしことをもおこし給ふとて・いまもみそなはし・のちのよにもつたはれとて」と云々・又云「万葉集マンエフシフにいらぬふるき歌・みづからのをも奉らしめ給ひてなん・(中略)すべてちうたはたまきなづけて古今和歌しふといふと云々・これらの詞にて・古今の二字のキコえ侍るにや

はしめは続万葉集ショクマンエフシフといひけるよし真名序マナジョにみゆ・真名序に云・「タテマツラセテ家集イヘノシフナラビニ古来旧歌コライノキウカヲイフ続万葉集ヲイテコヽニ重而カサネテアリテミコトノリ-ルイシテトコロタテマツルウタヲロクシテ二十巻ナツケテ古今和歌集」と云々・此ジョの心も・いにしへよりのふるうた・たゝいまの人の家集イヘノシフなどたてまつらせて・其歌をあつめられて・古今和歌集と名つけられしとみえ侍る

風雅集フウガシフノ雑下ザツノゲに云・[1840]基俊モトトシに古今集をかり侍りけるを・かへしつかはすとて 俊成トシナリ 君なくはいかにしてかははるけましいにしへいまのおぼつかなさを [1841]返し 基俊 かきたむるいにしへいまのことのはをのこさず君につたへつるかな 基俊は俊成卿の古今伝授デンジュ師匠シショウ

宗祇云・「なら一説ミカドと当代延喜とを・古今の二字にあてゝなづけたる也・其故はむかしより歌は我国のことわざとして・たえせぬ道といへどもとりわき文武天皇モンムテンワウ此みちにふかし御心ざしましまして・柿本カキノモトノ人丸を御師ヲンシとして・道をまなび給ひし事代々にすくれ給へれは・是をの字にあてゝ用る也・聖武シャウム御宇ギョウ是をショウせらるゝといへど・文武の御代ミヨ人丸合体ガッテイシンとして・さかんなる故也・キンとは当代延喜の聖代にまし/\て・しかも和歌の道に御心をしめおはしまして貫之御マイれり・よりて当代をキンとるなり・されはみちの心をつぐゆへにハルカムカシなれとも・先師センジ柿本カキノモト大夫マウチキミとかけるなり・(真名序にあり・人丸を貫之歌の師と云也・)

(頭注:)合体ガッテイとは・君臣クンシン合体と云事也・君とシンと心を一つにして・身体シンタイを合せたる心也・かな序に「君もひとも身をあはせたる」といふも此心也

一華抄云・もろこしに・聖人セイジンミチ ギョウ シュン  タウ 文武ブンブ 周公シュコウ 孔子コウシとつづく也・道をツグ心からのごとく也・直受ジキジュタヽチニウクルにもしらずる者あり・見てしる者あり・聞てしる者有・文武モンムと人丸の合体ガッテイをうつしなそらへて・延喜に貫之此集をウケタマハセンぜる也・万葉集は聖武ショウムヲンセンぜられ・シフ最初サイショたりといへども・其以前イゼン文武モンムモッテ根本コンボンを用る也・是当流タウリウ家伝カテンなり

宗祇又云・二説コとは天地テンチアメツチ未分ミブンイマタワカレス万物バンブツイマタズレヲコラ・たゝ本分ホンブンなる所をと云也・キン国常クニトコ立帝タチノミコトよりこのかた・今日コンニチまで・一切イッサイ衆生シュジャウ境界キャウガイキンの字にとれり・日本紀ニホンキニイハク:「イニシヘノ天地アメツチイマダワカレ陰陽メヲサルトキワカレ渾沌マロカレタルコトゴトシ鶏子トリノコノ」云々・鶏子はカイゴなり・円形ヱンキャウマロキカタツにて・中は水ばかりなり・水気スイキ形色ケイショク分別フンベチなきところなり・これ未分ミブントコロ也 日本紀又云・「天之中生一物ナレリヒトツノモノ状如カタチゴトシ葦牙アシカヒノ」といへるは・大初タイショにあたれり・スナハチ開闢カイヒャクの所なり・渾沌コントン未分ミブントコロ教禅ケウゼン二法ニホウをからずしてしる事は・此集のトク

(頭注:)国常立帝とは・日本紀に一ゲンのはじめの神也・列士レッシに云・「太易タイエキハイマタアラハサキヲ也・太初者,気之キノ始也ハジメナリ」・又云・「太極タイキョクハ形質ケイシツステニスナハル然則シカレハスナハチ元気之ゲンキノ初自ハシメハヨリス太初タイショ」云々・

(頭注:)日本紀云・「天地之中生一物、狀如葦號國常立尊」・しかれは太初一元の気の初めし云々・

(頭注:)教禅とは・

春歌上

Spring Volume 1 - 67 poems

  • The "Ritsurekishi" volume of the Chronicles of Han says: "春 is 蠢 (movement). The moving creatures are born."
  • Teacher says: The spring, autumn, and miscellaneous volumes are divided into two books because the number of poems is large.

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ふるとしに春たちける日よめる

  • This is the start of spring in the old year.
  • Sogi says: The use of ふるとし in this preface is to bring past and present together. The spirit of Tsurayuki is the same as the spirit of Hitomaro. And also the heart of the current Emperor is the same as that of Emperor Monmu. Since they found a poem that exactly captured this feeling, they wrote this.

在原元方ありはらのもとかた

  • The grandson of Narihira and the son of Muneyari. He was the foster child[?] of Grand Counselor Kunitsune.
  • Sogi says: There is no hidden meaning to this author. [It was entered here due to special consideration?] Therefore, it was because of his skill at poetry that he appears first in the collection.

としのうちに春はきにけり一年をこぞとやいはんこ年とやいはん

  • Sogi says: There is no meaning to this poem other than what is given in the prose preface. This is the main form of poems in this collection. [Ki no Tsurayuki's poetry also understood this meaning?]. This poet gained glory from being the first in the collection.
  • The Asukai Commentary says: Within the fixed time of one year, did the spring come in this year or last year? This poem uses "year" four times; we cannot do that now.
  • Sogi says: Both "past" and "present" are in this poem.
  • My teacher says: The 古 is in "last year" and the 今 is in "this year". The Eishoki of Taisho also says the same.
  • The Eiseiki says: This poem was put at the head, having no hidden meaning. It is written just about the start of spring in the old year. The writing of direct poetry with no hidden meaning is the main style of this collection.